鳩森八幡神社は、東京都内最古の富士塚が有名な他、将棋会館と隣接するため有名棋士も足しげく通う、将棋関係者の聖地でもあります。
こちらのページでは、そんな「鳩森八幡神社」の御朱印(御朱印帳)やお守りの種類と、他に、ご祭神や歴史、見どころ、授与品やアクセスなどについてご紹介しましょう!
読み方
はとのもりはちまんじんじゃ
創建年
860年(貞観2年)
主祭神
応神天皇・神功皇后
例祭
9月第2土曜日、日曜日
項・一覧
鳩森八幡神社のご祭神
鳩森八幡神社のご祭神は、「八幡神(はちまんのかみ/はちまんしん)」、「八幡さま」としても知られる応神天皇です。
「応神」は死後に贈られた名前ですが、祭神名としては生前の名前である「誉田別命(ホンダワケノミコト/品陀別命)」が用いられることもあります。
第15代天皇に数えられる応神天皇は、歴史上実在した最初の天皇だと言われています。
応神天皇の治世は、4世紀末の41年にもおよび、その間、大和朝廷は、朝鮮半島への進出、大陸文化の輸入、東国の平定などめざましい発展を遂げました。
応神天皇と共に祀られている神功皇后(じんぐうこうごう/オキナガタラシヒメ命)は、応神天皇の母神です。
応神天皇の父で先代の仲哀天皇が亡くなった時には、応神天皇を懐妊していたといい、このことから応神天皇は「胎中天皇」とも呼ばれます。
神功皇后は妊娠中に新羅に遠征し、相手を降伏させて帰国した後、出産したと伝えられています。
出産後は応神天皇を皇太子として自らが摂政となり、政治の実権を握りました。
応神天皇(八幡神)を祀る八幡系の神社は全国で3万とも4万とも言われており、分祀の数では稲荷系の神社に次ぐ第2位の多さとなっています。
鳩森八幡神社の歴史・由来
鳩森八幡神社は、千駄ヶ谷一帯の総鎮守として、周辺住民を始め多くの人々の崇敬を受けてきました。
総鎮守(鎮守神)
鎮守神(ちんじゅしん)とは、本来、ある特定の地域を守護する神のことですが、現在は、その土地に生まれた個人の守護神である産土神(うぶすながみ)と同じような意味合いでも、「鎮守神」という名称が用いられます。
鳩森八幡神社の創建は、平安時代の860年(貞観2年)で、もともと祠(ほこら)があった場所に、慈覚大師(円仁)が応神天皇と神功皇后の像を造って祀ったのが始まりとされています。
『江戸名所図会(えどめいしょずえ)』という資料によると、慈覚大師の鳩森八幡神社創建までには、以下のような経緯があったといいます。
鳩森八幡神社がある場所には、かつて林があり、この林に度々「瑞雲(めでたいことが起こる前兆とされる雲)」が現れていました。
神亀年間(724年~729年)のある日、青空から白雲が降りてきたのを不思議に思った村民が林に入ってみると、突然、白い鳩がたくさん現れ、西に向かって飛び去りました。
この不思議な現象を何かめでたいことのしるしと見た村民は、神さまを祀る小さな祠を造り、一帯を「鳩森(はとのもり)」と名付けました。
860年(貞観2年)、慈覚大師が関東を巡っていた時、「鳩森の祠に祀るご神体を」という村民の強い願いにより、八幡神の使いである鳩にちなんで八幡宮とするべく、八幡さま(応神天皇)と神功皇后の像を造って祀りました。
鳩森八幡神社 ご社殿(本殿)
造営年
伝・久寿年間(1154~1156年)
再建年
1845年(弘化2年)/1981年(昭和56年)/1993年(平成5年)
建築様式(造り)
総欅造
社殿の大きさ
51.8坪(約171.2㎡)
※面積比較:バレーボールコート(162㎡)よりやや広いくらいの大きさ
鳩森八幡神社 ご社殿(本殿)の歴史
- 久寿年間(1154~1156年):渋谷金王丸が造営か
- 1845年(弘化2年):欅(けやき)造の社殿が上棟
- 1945年(昭和20年):空襲により焼失
- 1981年(昭和56年):再建
- 1993年(平成5年):復元工事完成
鳩森八幡神社には、ご社殿(本殿)が1棟あります。
平安末期の久寿年間(1154~1156年)に、渋谷金王丸(しぶやこんのうまる)が、鳩森八幡神社での戦勝祈願の後の戦で大勝利を手にしたことから、自身の念持仏であった恵心僧都作の「阿弥陀如来像」を奉納し、本地仏として祀るため社殿を造営したという伝承が伝わっています。
渋谷金王丸(しぶやこんのうまる)
平安時代、現在の渋谷に「渋谷城」を築いて渋谷氏の祖となった河崎基家(渋谷重家)という人物がいました。
重家が当時「渋谷八幡」と呼ばれていた現在の「金王八幡宮(こんのうはちまんぐう)」に祈願したところ、その後、嫡男・常光となる男児が金剛夜叉明王(天界にいる明王の1人)の化身として生まれました。
このことから、常光は後に自ら「金王丸」と名乗り、金王八幡宮の社名の由来にもなりました。
その後、江戸時代末期の1845年には、新たに欅(けやき)造の立派な社殿が建ちましたが、1945年の空襲により焼失し、戦後1948年から数度の復興事業を行って、1981年に再建されました。
さらに、1990年の天皇陛下の御大典(即位の礼)を記念し、かつての姿に復元する工事が行われ、1993年(平成5年)に現在の総欅造(そうけやきづくり/=ケヤキ材を使用した社殿)の社殿が完成しました。
戦前にあった拝殿と幣殿の天井に絵が描かれていたことに習って、新しい社殿には108つの草花や暮らしの中の道具をテーマとした天井画が描かれています。(内部は通常非公開)
鳩森八幡神社のその他の末社・見どころ
まず、鳩森八幡神社の境内図(MAP)の紹介から・・
鳩森八幡神社は意外に広く、本殿となる社殿の他、特に有名所が『富士塚』と『将棋堂』です。
将棋堂には例年、将棋の棋士さんたちが参拝して1年の無事と将棋業界全体の興隆を祈願します。
その他にも、知られていない様々な見どころがありますのでご紹介します。
緑豊かな境内の、季節の花々を愛でながら、ぜひゆっくりと散策してみてください!
鳩森八幡神社の「富士塚」と「冨士浅間神社」
富士塚(千駄ヶ谷の富士/富士塚)【都指定有形民俗文化財】
造営年
1789年(寛政元年)
高さ
約6m
「都指定有形民俗文化財」登録年月日
1981年(昭和56年)3月12日
鳩森八幡神社のもっとも有名な見どころの1つであり、パワースポットとしても知られているのが、「富士塚」です。
鳩森八幡神社が鎮座する地名を取り、「千駄ヶ谷の富士」、「千駄ヶ谷の富士塚」とも呼ばれ、「江戸七富士」の1つにも数えられています。
富士塚とは?
富士塚は、富士山を模して造られた人工の山です。
富士山は古くから聖なる山として人々の信仰の対象でしたが、江戸時代の化政年間(1804~1830年)とその前後には、江戸の庶民の間で富士山ブームが訪れました。
人々は「富士講」と呼ばれるグループを結成して富士山登拝(とはい)をしましたが、諸々の事情で富士山まで行けない人も大勢いました。
そこで、あこがれの富士山登拝を身近にするべく、人々は地元の神社に「富士塚」を造って登ったり巡礼したりしました。
高くても15mほどの小さな山ですが、富士山の溶岩を運んで埋め込んであったり、富士山の名所を再現してあったりするものもあり、江戸の人々の篤い信仰心が現れています。
現在、都内ある富士塚は50とも70とも言われています。
鳩森八幡神社の富士塚は、江戸時代のの1789年に築造されたと言われています。登山口は3か所あり、登山道は自然岩を用いた階段となっています。
円墳の形に土を盛って造られており、山頂の冨士浅間神社「奥宮」周辺には富士山の溶岩があしらわれています。
また、4合目には冨士浅間神社「里宮」が、御影石を用いて造られています。
実際に富士山にもある「小御嶽石尊大権現(冨士山小御嶽神社)」も富士山さながら祀られています。富士山登山者の守護神として現在も崇拝されています。
さらに、食行身禄(じきぎょうみろく/身祿様)を祀る洞窟、烏帽子岩、金明水・銀明水、釈迦の割れ石などの富士山の名所も再現された、こだわりの富士塚となっています。
食行身禄
商人として江戸で成功していましたが、富士行者である僧の弟子になり、後に自らも富士講の指導者となって、富士講「身禄派」を興こしました。
1732年、飢饉(ききん)が広がる中で富士山に入って断食を始め、翌年亡くなりました。
鳩森八幡神社の富士塚は、1923年の関東大震災の後に修復されているものの、東京都内に現存する富士塚の中で最古と言われ、場所も築造当時のままだということです。
鳩森八幡神社の境内には24時間自由に入場でき、富士塚にも、いつでも登ることができます。
登山道はかなり急で険しい部分もあるので、歩きやすい靴を履いて行くことをおすすめします。
1、2分あれば登れますので、鳩森八幡神社にお参りの際は、ぜひ、富士塚登拝も体験してみてください!
富士塚はハイヒールでは登れない
富士塚は人工のお山ですが、道のりは山道と同じですのでハイヒールで登山するとコケて皮膚が擦りむけたり、打撲する可能性があります。あらかじめ登山される予定であれば、スニーカーでお越しください。
冨士浅間神社
再建年(里宮)
1985年(昭和60年)
ご祭神
木花咲邪姫命(コノハナサクヤヒメノミコト)
富士塚の山頂には浅間神社の奥宮、4合目には里宮が祀られています。
里宮の社殿は、以前は木造でしたが、1985年、御影石を用いて建て替えられました。
コノハナサクヤヒメ命のご神徳
- 農業、漁業・航海、子授け、安産、火難除け、織物業守護 など
コノハナサクヤヒメ命は、富士山をご神体(神体山)としている富士山本宮浅間大社と、全国約1300社の浅間神社に祀られ、山の神・火の神、そして子授けや安産の神として知られています。
甲賀稲荷社
創建(遷座)年
1885年(明治18年)
再建年
1970年(昭和45年)
ご祭神
宇迦之御魂神(ウカノミタマノカミ)
甲賀稲荷神社(こうがいなりじんじゃ)は、かつて青山権田原(現在の明治神宮外苑がある場所)にあった幕府の鉄砲隊「甲賀組」の鉄砲演習場付近にあり、甲賀組の武士らが崇敬していました。
その後、明治時代の1885年、鉄砲演習場があった場所に青山練兵場を設置するため、社殿は鳩森八幡神社の境内に遷座・合祀されました。
鳩森八幡神社の神像から見つかった1847年(弘化4年)年の記録では、甲賀組が米や酒、金を寄進したことが伝えられ、地理的に近かったというだけではない、両者の繋がりがうかがえます。
1945年5月の空襲で社殿を失った後は、本殿の中に祀られていましたが、復興を望む声が高まり、1190年、欅(けやき)造の社殿が造営され、再び遷座されました。
ウカミノタマ神のご神徳
- 五穀豊穣、産業興隆、商売繁盛、家内安全 など
ご祭神・ウカミノタマ神は「お稲荷さん」として知られ、京都の伏見稲荷大社のを総本社とする全国の稲荷神社、稲荷社に祀られています。
ウカミノタマ神を祀る神社は、全国で3万社以上あり、名もない小社まで含めると4万とも5万とも言われています。
神明社
創建(遷座)年
1908年(明治41年)
ご祭神
天照大神(アマテラスオオミカミ)
神明社(しんめいしゃ)は、かつて甲賀稲荷神社と同じ権田原に鎮座していた「太神宮」という神社でしたが、1908年に鳩森八幡神社の末社として、境内に遷座されました。
「神明社(神明神社)」とは、「お伊勢さま」「神明さま」などとも呼ばれるアマテラスオオミカミを主祭神とし、伊勢神宮内宮を総本社とする神社で、系列の神社は全国におよそ5000、一説には約18000社あると言われています。
太神宮とは
「太神宮(だいじんぐう)」は、「神明神社」と同じく、アマテラスオオミカミを祀る神社の名称です。
他に「神明神」「伊勢宮」などという名前の神社も、アマテラスオオミカミを祀り、伊勢神宮内宮を総本社とする神社です。
天照大神(アマテラスオオミカミ)のご神徳
太陽神、皇祖神、そして日本の総氏神という性格を持つアマテラスオオミカミのご神徳は、まず、国家の繁栄や平安です。
身近なレベルでは、あらゆる神徳を発揮し、私たちに様々な困難・災いに打ち勝つ精神力を与えてくれる、いわば万能の神とされています。
将棋堂
創建年
1986年(昭和61年)
鳩森八幡神社のすぐ近くには日本将棋連盟の将棋会館があり、鳩森八幡神社は長い間、棋士など将棋の関係者にとってなじみの神社でした。
(鳩森八幡神社の社務所の裏手に将棋会館の建物が見えます)
将棋会館や鳩森八幡神社は、将棋を題材とした人気漫画(アニメ、映画)の「3月のライオン」や、映画化もされた小説「聖の青春」の舞台としても知られています。
1986年1月、日本将棋連盟の当時の会長・大山康晴十五世名人から高さ1.2m・欅(けやき)製の王将大駒が奉納されたのをきっかけに、同年11月、日本将棋連盟と鳩森八幡神社が協力して、この大駒を納めるお堂「将棋堂」を建立しました。
将棋堂は六角形の形をしていますが、この形は天地四方(上下・前後・左右)を表わします。また、屋根の上の飾りは梔子(くちなし)の実がモチーフの「将棋盤の足」の形をしています。
くちなしは「口無し」に通じ、将棋の対局中は助言無用であるという戒めに由来しているのだそうです。
現在でも、将棋の技術向上や将棋界の発展を願う人々が参拝し、多くの「棋力向上絵馬」がかけられています。
大駒は堂内に設置された御影石の将棋盤の上に立ち、その奥には勝運の神・八幡神が祀られています。
※棋力向上絵馬は、鳩森八幡神社の授与所で授与されています。
年に一度の御開帳!「将棋堂祈願祭」
- 日程:1月5日11時~
将棋堂の扉は普段は閉まっていますが、年に一度、「将棋堂祈願祭」の時だけは特別にご開帳され、”王将”の大駒の全貌が公開されます。
ちなみに、現在の大駒の”王将”の文字は、大山康晴十五世名人が揮毫されたものになるそうです。
毎年、棋士や将棋連盟の会長、理事などの関係者が参列し、神職によるお清めや祝詞奏上の後、棋士らによって玉ぐしが捧げられ、将棋界の発展や、棋士の技術向上が祈願されます。
2018年には、史上初の「永世七冠」を達成した羽生善治さんや、「十八世名人」で将棋連盟専務理事の森内俊之さん、鈴木大介さん、中村太地さん、佐藤天彦さんら、有名棋士も参列されました。
ねぇねぇねぇ、ところで将棋堂の祈願祭は一般見学できる??
将棋ファンであれば、有名棋士さんたちにリアルに会いたいところですが、ぬぅあんとぉぅ!ぉぅイェ〜!…将棋関係者の後方からとはなるものの、一般の方も見学することができるのです!
そういえば、昨今の将棋業界といえば、中学生棋士の藤井聡太さんが前代未聞の29連勝を成し遂げ、ボンバーヘッドになっちまうほど将棋ブームに火が付いちまってます。
その影響もあり、なんと!2018年の祈願祭には、例年よりもたくさんの将棋ファンが訪れています。
そして将棋堂祈願祭の終了後は、今度は将棋会館の特別対局室に場所を移して、将棋界における仕事始めとなる「指し初め式」が行われています。
指し初め式は、一局の将棋を多人数で受け継ぎながら局面を進めていく恒例行事です。名人から一般の棋士、将棋関係者や、将棋好きな一般参加の子供たちによって行われます。
鳩森八幡神社と羽生善治竜王
将棋の棋士としては史上初の国民栄誉賞受賞者となった羽生善治さんにとって、鳩森八幡神社は、大切な対局の前に参拝するなじみの場所です。
また、1996年に結婚式を行った、思い出の場所でもあります。
結婚式当日の羽生さんは黒の紋付とグレーの袴、お相手で歌手・女優の畠田理恵さんは黒地に華やかな菊柄の着物といういで立ちでした。
御神木の大銀杏
大鳥居をくぐってすぐのところには、戦中の空襲の被害も受けずに生き残った、大銀杏があります。
樹齢ははっきりとはわからないようですが、きっと、武士の世から鳩森八幡神社と江戸・東京を見守り続けてきたのでしょう。
能楽堂
能楽堂は、かつての神楽殿が老朽化したため、2000年に建築されたものです。
こちらでは、毎年「鳩森薪能」が開催される他、舞の奉納なども行われます。
鳩森八幡神社のオリジナル御朱印とお守り
鳩森八幡神社では、名前の”鳩”にちなんだオリジナルの御朱印やお守りを授与されています。
鳩森八幡神社の御朱印やお守りの種類に関しては以下の別ページにてご紹介しています。
鳩森八幡神社の「オリジナル鳩おみくじ」
鳩森八幡神社のおみくじの種類と初穂料(値段)
鳩森八幡神社のおみくじと言えば、何と言っても「鳩みくじ」です!
中には吉凶の判定と、
恋愛、結婚、願望、仕事、金運、健康、学業に関する運勢が一言ずつ書かれ、一番上に鳩さんからのアドバイスが載っています。
結ぶと「鳩」になるのもポイントで、境内のおみくじ結び場にはこの鳩みくじの鳩がたくさん留まっています。
他にも、スマートフォンなどに貼れる小さな蒔絵シール入りの「万福みくじ」(200円)や、5か国語対応の外国語みくじ(100円)もあります。
鳩森八幡神社の授与所・御朱印所の場所・営業時間
鳩森八幡神社のお守りなどの授与所・御朱印所は、拝殿向かって左側にあります。
- 営業時間:9時~17時
※祭祀などの関係で変更になる場合もあります
鳩森八幡神社の住所・参拝時間・拝観料など
住所:東京都渋谷区千駄ケ谷1-1-24
拝観料:無料
参拝時間(開門時間・閉門時間)
境内自由、社務所は9時~17時
公式サイト:https://www.hatonomori-shrine.or.jp/
【補足1】応神天皇(ホンダワケ命)が八幡神になった理由(経緯)
冒頭にて鳩森八幡神社の御祭神は「八幡神(応神天皇)」だとご紹介しました。
八幡神は北九州の豪族の氏神として宇佐神宮(宇佐八幡宮)に祀られていましたが、その後は大和朝廷の守護神としても信仰されるようになりました。
歴史上のある時から応神天皇(ホンダワケ命)と同一視されるようになったとされていますが、詳しい理由については明らかにされていません。
ただ、平安時代後期の歴史書『扶桑略記』には、次のような話があります。
第29代欽明天皇の時(539年~571年)、豊前国(大分県)の宇佐郡にある厩峰(うまやみね)の麓の菱潟池のほとりに、奇妙な容貌の翁が住んでいました。
その土地の神主の大神比義(おおがなみよし)は、翁が金色の鷹や鳩に変身するのを目撃したことをきっかけに、それから老人に仕え始めます。
3年経ったある日、比義が「もし神ならば、私の前に姿を見せてください」と祈ると、翁は3歳の子どもの姿に変身して竹の葉の上に立ち、
「私は15代応神天皇であり、護国霊験威身神大自在王菩薩(ごこくれいげん いしんじんだいじざいおうぼさつ)である」
と名乗りました。
これと似た話は、宇佐神宮の縁起としても伝わっています。
他にも、奈良の東大寺や大阪の住吉大社の資料にも八幡神を応神天皇とする記述が見られ、奈良時代から平安時代にかけて両者が同一視され始めたと考えられています。
宇佐神宮の『宇佐託宣集』や『豊前国風土記』によると、八幡神は「自分は中国(または新羅)の神だったが、今後は日本の神となる」というようなことを告げられたとされています。
このことも、中国や朝鮮半島とつながりが深かった応神天皇(ホンダワケ命)と同一視される1つの理由となったのかもしれません。
応神天皇(ホンダワケ命)のご神徳
- 国家鎮護、殖産産業、成功勝利、教育、交通安全、悪病災難除け など
八幡神・応神天皇(ホンダワケ命)は、天皇の神霊であることから皇祖神とされ、皇室からも信仰されてきました。
さらに、平安時代末期から鎌倉時代にかけて源氏が守護神として祀ったことから、武運の神として長い間崇敬を受けてきましたが、戦後は「勝運の神」として教育、文芸、縁結びなど幅広い「勝ち」を呼ぶ神として親しまれています。
また、聖母神の神功皇后(オキナガタラシヒメ命)は、縁結び、子宝、安産、子育て守護などの神として信仰されています。
【補足2】鳩が「神の使い」になった理由(経緯)
鳩は、八幡神の使い「神使(しんし)」として知られています。
鳩が神の使いとなった理由には、上記の説和を始めとして諸説あり、はっきりとしたことはわかりませんが、以下に一例をご紹介します。
- 応神天皇が国内を平定する際に、鳩が案内役を務めた
- 八幡神社の総本宮・宇佐神宮から、石清水八幡宮に分霊する際に、金の鳩が現れた(白い鳩が道案内をした)
- 源氏が八幡神に必勝祈願をした際に、金の鳩が現れた
- 八幡の「幡(はた)」、または「は」から「鳩」に変化した
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