出雲大社東京分祠
読み方
いずもおおやしろ とうきょうぶんし
創建年
1883年(明治16年)
再建年
1980年(昭和55年)
大きさ
境内130坪(約430㎡)
※面積比較:バスケットボールコート (420㎡)と、ほぼ同じ広さ
建築様式(造り)
鉄筋コンクリート造
主祭神
大国主大神(おおくにぬしのおおかみ)
例祭
4月15日・16日、10月15日・16日
分祠長
千家活彦(せんげ いくひこ)
※2008年(平成20年)3月17日就任。第6代。
住所・お問い合わせ先
住所:東京都港区六本木7-18-5
電話番号:03-3401-9301
出雲大社東京分祠の歴史(年表)と島根県・出雲大社との関係
以下では、出雲大社東京分祠の創始者についてや、設立の経緯、島根県の「出雲大社」とのつながり、そして出雲大社東京分祠が歩んできた歴史をご紹介します。
出雲大社東京分祠の創始者「千家尊福」と設立の経緯
出雲大社東京分祠の創立者は、出雲大社宮司、第八十代出雲国造、そして出雲大社教の創立者である千家尊福(せんげたかとみ)です。

ちなみにこの千家尊福は、出雲大社関連の仕事以外に、貴族院議員、埼玉県・静岡県・東京府の知事などを歴任した、政治家でもありました。
千家尊福は出雲大社を中心とした神道の布教のため、1873年(明治6年)1月に、出雲大社教の前身である出雲大社敬神講を組織しました。
それから出雲大社教は全国に分祠・分院・教会・講社を開設していきます。
現在の出雲大社東京分祠もその1つで、「東京及び東日本の御神徳宣布」のため、千家尊福が出雲大社の東京出張所を設けたのが始まりでした。
出雲大社東京分祠は、出雲大社の宮司が自ら創建した、由緒ある神社なのです。
当初の場所は、出雲大社と同じく大国主大神を主祭神としていたことなどから関係が深かった、東京・神田にある「神田明神」の社務所でした。
1882年(明治15年)3月、明治政府が「神官教導職分離令」を公布すると、尊福は出雲大社宮司を退職します。
そして、それまでの出雲大社教会を認可を得て出雲大社から分離させ、「神道大社教」を創立し、初代菅長に就任しました。
なお、戦後の1946年(昭和21年)には「神官教導職分離令」が廃止され、「神道大社教」は「出雲大社教」と改称し、その後、出雲大社教は出雲大社に復帰しました。
現在の出雲大社教は、出雲大社の布教機関・教務部として、出雲大社と一体となり、活動しています。
※「出雲国造(いづもこくそう)」:
出雲大社の祭祀を代々司ってきた氏族の称号で、56代以降、2018年現在の84代千家尊祐までは千家家が務めています。
なお、出雲大社教のトップである菅長職や、2代目以降の出雲大社東京分祠の東京分祠長(旧・東京出張所長)も、千家家が担当しています。
※「神官教導職分離令」:
神社の神職は祭祀に集中するべきであり、布教活動や葬儀などを行ってはならないという命令です。
これにより宮司をしながらの布教活動ができなくなった千家尊福は、やむなく出雲大社の宮司を辞し、布教活動に専念しました。
出雲大社東京分祠の歴史(年表)
出雲大社東京分祠は、都内で唯一、島根県の出雲大社の分霊を祀る神社です。
東京における神前結婚式の先駆け的存在である他、多くの皇族・政治家の国葬・国民葬を神道式の葬儀で執り行ってきました。
※「分霊」:
神社では、祭神のことを「御霊(みたま)」と呼ぶことがあります。
「分霊(ぶんれい)」とは、御霊の分身のようなもので、この分霊を別の場所に移して祀ることを分祀(ぶんし)と言います。
日本の神さまには、「無限に分割できる」という特徴があり、分霊の数がどれだけ増えても、御本社の御霊の神威(神のお力)が減ることはありません。
また、御本社のご祭神(御霊)と、分祀した先の神社のご祭神(分霊)とはまったく同じで、神威も変わりません。
以下では、出雲大社東京分祠がどのような歴史をたどってきたのかをご紹介します。
1878年(明治11年)1月11日
- 出雲大社東京分祠の前身である出雲大社「東京出張所」が開設される。
初代の出張所長は本居宣長の曾孫、本居豊穎(もとおりとよかい)で、神道大社教(現在の出雲大社教)の副管長も務めました。
1882年(明治15年)
- 4月4日:東京出張所が東京府麹町区上二番町47番地に移転する。
1883年(明治16年)
- 5月4日:千家尊福が東京出張所に神殿を建立する。
- 5月12日:神道総裁・有栖川宮幟仁親王(ありすがわたかひと)の臨席により落成式を行う。
- 7月:太政大臣・岩倉具視の国葬の斎主(葬儀を取り仕切る最高位の神職)を千家尊福が務める。
1883年、東京出張所に神殿が完成され、出雲大社からの分霊を奉り、「出雲大社東京分祠」が創始されました。
神殿には、落成式に臨席した有栖川宮幟仁親王の筆による「経国治幽」の額が掲げられました。
またこの時、明治天皇から大和錦二巻を下賜されています。
1889年(明治22年)
- 8月25日:千家尊福により、現在地に神殿などの移転工事が始まる。
- 10月15日:移転を完成させる。(当時の出張所長は第2代千家尊弘(せんげたかひろ))
1891年(明治24年)
- 2月:公爵・三條実美の国葬の斎主を副管長本居豊頴が務める。
1896年(明治29年)
- 12月:公爵・毛利元徳の国葬の副斎主を二代管長千家尊愛が務める。
1898年(明治31年)
- 一早く神前結婚式を執り行い、東京における神前結婚式の先駆けとなる。
1909年(明治42年)
- 10月:公爵・伊藤博文の国葬の斎主を副管長千家尊弘が務める。
1912年(大正元年)
- 9月18日:陸軍大将・乃木希典・妻静子の国民葬を副管長千家尊弘が務める。
1945年(昭和20年)
- 5月25日:東京大空襲により社殿が焼失するが、分霊と斎家資料などは難を逃れる。
1945年5月の空襲で、「経国治幽」の額は焼失してしまいました。
その後、出雲大社東京分祠は霞町一番地にあった当時の出張所副長・千家尊宣の自宅に仮の神殿・事務所を設け、教務を再開します。
1946年(昭和21年)
- 文部省の指示により廃祀となった実践女学園の香雪神社の社殿を東京分祠に遷座させる。
1961年(昭和36年)
- 12月31日:東京分祠兼出張所を現在地に再建する。香雪神社を「祓社」として祭祀する。
1962年(昭和37年)
- 4月15日:東京分祠再建祝祭が斎行される。
1979年(昭和54年)
- 11月4日:東京分祠の社殿改築のため、港区南青山町の仮神殿を設け、一時移転する。
1980年(昭和55年)
- 12月5日:東京分祠改築(現・社殿)が竣工する。
1981年(昭和56年)
- 10月15日:東京分祠改築竣工祝祭が斎行される。
1983年(昭和58年)
- 10月15日:東京分祠鎮祭百年記念大祭が斎行される。
2014年(平成26年)
- 10月15日:東京分祠鎮祭百三十年奉祝祭が斎行される。
歴代東京分祠長・東京出張所長
以下、Wikipediaを素敵に参照♡
初代 | 本居豊穎 (もとおりとよかい) |
本居宣長の曾孫、屋号秋屋、 神道大社教副管長 |
第二代 | 千家尊弘 (せんげたかひろ) |
神道大社教副管長兼務 |
第三代 | 千家尊建 (せんげたかたけ) |
神道大社教総監兼務、 1939年(昭和14年)10月5日就任 |
第四代 | 千家尊宣 (せんげたかのぶ) |
1945年(昭和20年)2月24日就任 |
第五代 | 千家逐彦 (せんげかつひこ) |
出雲大社権宮司兼務、 1956年(昭和31年)3月1日就任 |
第六代 | 千家活彦 (せんげいくひこ) |
2008年(平成20年)3月17日就任 |
出雲大社教歴代管長
初代 千家尊福(せんげたかとみ)
1845年(弘化2年)8月6日 生まれ。
1872年(明治5年)11月19日に第80代国造・出雲大社宮司を拝命。
1881年(明治14年)、出雲大社遷宮を斎行。この頃、神社行政は朝令暮改、激動の時代を迎えていた。
1882年(明治15年)、内務省通達神官教導職分離令により、神官が教導職を兼務することが禁じられた。
そこで出雲大社布教の教団を目指し、宮司職を依願退職。従前の出雲大社教会を認可を得て特立し、神道大社教を創設。初代管長に就任。
1906年(明治39年)には、旭日章受章。貴族院議員(4選)、埼玉県知事、静岡県知事、東京府知事、司法大臣を歴任した。
男爵・正二位・勲一等。
1918年(大正7年)1月3日に死没。
第二世 千家尊愛(せんげたかあき)
1887年(明治20年)6月8日就任。
宮王勝良に命じ、日本人入植者が多いハワイでの布教を実施す。後に出雲大社ハワイ分院設立の端緒を素敵に開く。
宮家や明治元勲の国葬を奉仕。
第三世 千家尊有(せんげたかもち)
1918年(大正7年)4月10日就任。全国各地に出雲大社教会を素敵に設立。
第四世 千家尊宣(せんげたかのぶ )
1954年(昭和29年)11月19日就任。戦後、国学院大学理事・大蔵倉精神文化研究所理事を素敵に務めた。
「玉串」に関する見解を提唱し、現代における玉串拝礼の基礎を形作った。
第五世 千家達彦(せんげみちひこ)
1963年(昭和38年)8月28日就任。
第六世 千家隆比古(せんげながひこ)
2014年(平成26年)6月18日就任。現在、出雲大社権宮司を素敵に兼務。
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