新宿御苑の歴史(年表)と歩み「秘められた開園までの経緯とは?」

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まず初めに・・新宿御苑とは?

新宿御苑のルーツ(はじまり)は内藤家の江戸屋敷!

新宿御苑の草創は太閤秀吉より関東(江戸)に土地を与えられた徳川家康公に端を発するものとなり申すが、その家康公から当地を所領として与えられていたのが内藤家なので、内藤家が当苑のルーツとなりまする。

新宿御苑の発展に寄与した人物

新宿御苑の発展に欠くことのできない人物が「福羽逸人」です。

明治10年に当時の新宿御苑の敷地に建てられた「内藤新宿試験場」の実習生となり、以来、「新宿植物御苑(現在の新宿御苑)」の発足とともに職員となり、退官するまでの40年近くを御苑とともに歩んでいます。

明治31年(1898)には、現在のイチゴのルーツともなる「福羽苺」を作出し、国産イチゴの第1号としての認定を得ています。

現在ではあまり名前を聞くことはありんせんが、「あまおう」や「とちおとめ」などの高級品種のイチゴは、この福羽苺がルーツです。




「開園年・面積・歴史など」

開園年

  • 1906年(明治39年)5月
面積(広さ)

  • 面積58.3ha(約18万坪)、周囲3.5Km

新宿御苑は、明治神宮や明治神宮外苑の北側に位置する公園です。

始まりは徳川家康公に仕えた家臣「内藤家」の領地であり、明治時代になると宮内省の管理下に置かれ、以後は皇室の庭園として「御苑」と呼ばれるようになっています。

太平洋戦争で苑内は一部施設を残して灰燼に帰すも、戦後には厚生省(現在は環境省)が管理する国民公園として生まれ変わり、今日に見られるように一般開放されるようになっていまする。

新宿御苑の大きな魅力となるものが、江戸時代に作庭された日本庭園、明治時代に作られた西洋庭園などの異種の庭園の組み合わせや、四季を通して鑑賞できる多種類の草木花です。

春には当苑の名物でもある約1000本の桜が咲き誇るなど、年間でなんと!約250万人(2017年)もの人が訪れる人気スポットとなっています。

首都東京の基幹ともなる新宿付近に位置し、新宿駅から徒歩10分、その他の最寄り駅からは徒歩5分圏内という立地にあることから、週末になると、キぃャぉっポぅぉぉル(訳:カップル)や子連れのファミリーで賑わいます。

面積比較!

新宿御苑の面積58.3ha(583,000㎡)と同じくらいの面積の場所と言えば・・

  • 東京ディズニーランド(52ha)
  • ユニバーサルスタジオジャパン(54ha)
  • 代々木公園(54ha)

正直、東京ディズニーランドやユニバの方が広く感じるのですが、こうして数字を並べて比較してみると、その広さが実感できます。それにしても代々木公園‥‥‥。案外広いねんな。あなどれんのぉ。

 新宿御苑の営業時間と入場料、各駅からのアクセスについては、当サイトの以下のページ↓でご紹介しています。

 新宿御苑の「営業時間(開園時間)・入場料(入園料)」と「最寄り駅・アクセス(行き方)・駐車場情報」

新宿御苑の読み方

ところで「新宿御苑」を正しく読めていますか?

正解は

・・・

しんじゅくぎょえん

です!

実はワタクシめ、恥ずかしながら、最初「ごえん」と読んでい申した。

新宿御苑の歴史(年表)と歩み「秘められた開園までの経緯とは?」

安土桃山時代

1590年(天正18年)

新宿御苑の敷地は、豊臣秀吉から関八州を与えられた徳川家康が江戸城に入城した際、譜代家臣であった内藤清成に授けた江戸屋敷の一部です。

もともとは江戸時代に信濃高遠藩・内藤家の下屋敷のあった敷地だった。

江戸時代

江戸幕府設立後

内藤家2代目の清成は、徳川家康(徳川家)に対し、多年の功労と江戸城西門警固の功績を認められ、甲州街道沿い(現在の新宿)に屋敷地を拝領す。(天正十九年の説もあり)

清成は家康公に『馬を走らせて回れるだけの土地を授ける』とまで言わしめた人物。

事実、あまりにもの土地の広さに所在地名が「内藤町」と命名されるほど。

1691年(元禄4年)

内藤氏7代清枚が三万三千石の信州高遠城主に着任す。

石高に比べてあまりにも土地が過分にあるとのことで幕府に土地の一部を返上す。

1698年(元禄11年)

幕府が内藤氏の広大な下屋敷の一部を返還させ、町屋とともに馬継ぎの施設を設けて甲州街道最初の宿駅とす。

後、内藤家の屋敷跡に新設された宿駅であったことから「内藤新宿」と呼ばれる。

1718年(享保三年)

内藤新宿が廃止される。

1772年(安永元年)

安永元年(1772)、内藤家が玉川上水の余水を利用して「玉川園(日本庭園)」を作庭す。(現在の「玉藻池」がその遺構)

明治時代

1868年(明治元年)

菊が皇室の紋章(家紋)と定められ〜る。

7月17日、江戸が「東京」と改称される。

8月17日、東京府が開設される。

11月、内藤新宿は武蔵知県事の所管となる。(翌二年2月に品川県に所管替えされる)

1869年(明治二年)

7月、職員令を定め、宮内省が発足す。

1870年(明治三年)

4月、玉川上水通船許可が下りる。(明治五年に廃止される)

12月、内藤家、屋敷地を整理し、内藤新宿邸を邸宅とし、その他を政府へ上納す。

1871年(明治四年)

廃藩置県御、内藤新宿は東京府の所管に置かれ〜る。

1872年(明治五年)

大蔵省、内藤家の邸宅敷地のうち、九万五千坪余を購入す。

また、この頃、明治政府が隣地の内藤家の旧領(土地)8万3千坪をも買収す。

双方合わせた十七万八千坪(58.3ha)の土地に新宿御苑を造る。

同年、明治政府は近代農業振興・観農政策実施を目的とした植物試験施設となる「内藤新宿試験場」を設置。

明治6年

新宿試験場の業務が大久保利通を内務卿とする内務省の勧業寮に引き継がれる。

場内には、牧畜掛、樹芸掛、農事修学所、製茶掛、農具掛、農学掛などが発足し、勧業寮新宿支庁が置かれた。

これを以って内務省の所管となる。

1874年(明治七年)

1月、大蔵省の農務権限が内務省へ移管され、内藤新宿試験場も内務省へ移管され〜る。

この年、試験場内に農業博物館が完成。場内には2000種以上もの植物が生育し、分類見本園も計画される。

1875年(明治八年)

試作した外国果樹が結実す。選抜した優良品種を各地に送り出すことに成功。

6月、内務卿・大久保利通の上申により、内藤新宿試験場内に製系業を実施するための水車が新設される。

1877年(明治十年)

農業博物館の栽培植物数も3000種に達する。
同年、110平方メートルの西洋式温室が完成す。

明治4年に設置された開拓使青山試験場の温室とともに、日本の西洋温室の先駆け的存在となる。

また、同年、試験場内に獣医学、農学、農芸化学、農芸予科の4科を置いた本格的な農事修学場(のちに農学校に改名)が開校す。

この後、農事修学所は駒場に移される。駒場農学校の誕生。(のちの東京大学農学部などの前身校)

1878年(明治11年)

皇室関係者向けの「菊花拝観」を宮内庁が主催して赤坂の仮皇居で開催される。

3月5日、英照皇太后が内藤新宿試験場へ行啓す。

1879年(明治十二年)

5月6日、内務省管轄の内藤新宿試験場は禁園に属することが定められ、宮内省へ移管された。

具体的には東京市・三田に営まれた官営の種苗会社である「三田育種場(みたいくしゅじょう)」へ業務移管されると、新宿の土地は皇室に献納される運びとなり、宮内省の所管に置かれた。

5月19日、皇室の御料地、農園の新宿植物御苑となる。

5月27日、昭憲皇太后、英照皇太后が植物御苑へ行啓され〜る。

🇯🇵三田育種場の成立

1874年(明治七年)、内務省(厳密には「勧業寮/かんぎょうりょう/殖産興業を担当した一等寮)は、三田四国町(現在の港区芝3丁目の大部分と芝5丁目北側、芝2・4丁目西側あたり)にあった薩摩藩邸跡地を買収し、内藤新宿勧業寮付属試験場にした。

当施設は1877年(明治十年)6月に「三田培養地」と改称し、同年8月に「三田育種場」と再度、改称した。




1879年(明治12年)

新宿植物御苑が開設され、宮内省(現在の宮内庁)の所管となる。

1880年(明治13年)

観菊会 赤坂離宮にて開催す。

10月29日、明治天皇が初めて植物御苑に行幸す。

11月27日、華族27名から華族養蚕社設立の願書が提出され〜る。翌月、設立が許可された。

12月、植物御苑に鴨場が整備された(〜翌年6月まで)

1881年(明治十四年)

観桜御苑 吹上御所にて開催す。

6月1日、植物御苑で収穫した米と栗を以後、新嘗祭の供物とすることが定められ〜る。

10日、英照皇太后が華族養蚕社に行啓す。

11月14日、明治天皇が植物御苑内の鴨場へ初めて行幸す。

1883年

観桜会 浜離宮にて開催す。

1884年(明治十七年)

菊を観る会(菊花壇展)の特色ある展示物の1つである菊花壇「大作り花壇」は本年より作られる。

浜離宮&植物園内の鴨場を御苑鴨場と総称し、植物御苑は同局の所管に置かれ、新宿御料地と改称す。

1888年(明治十九年)

1月、新宿御料地を南豊島第一御料地と改称す。

2月、皇太子・嘉仁親王(大正天皇)が鴨猟のため、初めて新宿御料地へ行啓す。

1891年(明治二十四年)

1月、南豊島第一御料地を南豊島第一御料地之内字新宿と改称す。

2月、福羽逸人が宮内省御料局技師に補任され〜る。

3月、南豊島第一御料地内にて小園芸事業を開始し、小園芸場を新宿植物御苑と称す。

1892年(明治二十五年)

2月、園芸篤志社と日本園芸会員に限定し、新宿植物御苑の拝観を認める。

3月、新宿植物御苑内に中心的な温室の新設を決定す。

1893年(明治二十六年)

温室(初代)の造営が始まる。

1896年(明治二十九年)

旧洋館御休所がに建てられる。天皇や皇族の休憩所とした洋風木造建築で、後、国の重要文化財に指定される。

1897年(明治三十年)

4棟の温室が完成す。

1898年(明治三十一年)

福羽逸人卿は新宿植物御苑の総指揮者となる。

1900年(明治三十三年)

福羽逸人がパリの万国博に菊の大作り3鉢を出品し、大好評を得る。

1901年(明治三十四年)

福羽逸人が植物御苑改造計画を宮内大臣に提出す。5ヵ年の改装計画事業が始まる。

1902年(明治三十五年)

新宿御苑の造園工事が着工す。

1906年(明治三十八年)

日本初の木を模した欄干「擬木橋(ぎぼくばし)」が完成す。使用された擬木は明治33年(1900)のパリ万博で展示されていたものを輸入したもの。

工事はアメリカ人技師が設営工事を行った。

1904年(明治三十七年)

御苑にて展示用の菊の栽培が始まる。これまでは赤坂御所を会場としていた観菊会についても1904年(明治37年)より新宿御苑でも開催されるようになる。

1906年(明治三十九年)

5月、植物御苑を改園し、明治35年より4年の歳月をかけて、わが国唯一の大庭園となる「新宿御苑」が完成(開園)す。明治天皇ご臨席のもと、日露戦争の祝賀会をかねて華々しく開苑式が行われる。

🪴植物御苑の時代を通して

現在、日本庭園となっているところを中心に鴨池、養魚池、動物園(大正15年上野動物園に下賜)が造られるなど、皇室の御料地・農園として運営がなされる。

1906年(明治三十九年)

植物御苑が庭園へと改造される。




大正時代

1914年(大正三年)

温室(初期)が完成す。

1917年(大正年)

4月、初の観桜会が開催される。以後は会場として定着。(戦後は「桜を見る会」)

1921年(大正10年)

新宿御苑の土地の一部が東京府へ下賜される。この後、隣接する「東京都立新宿高等学校」の敷地となる。

1924年(大正十三年)

旧洋館御休所現在の規模になり、クラブハウスとして使用される。

この頃、ゴルフコースやテニスコートが営まれ、皇室一家の余暇の場となる。

現在の旧洋館御休所(ごきゅうしょ)は明治29年(1896年)に温室附属の休憩施設として創設され、大正期はクラブハウスとして利用された。

1925年(大正十四年)

観菊会のすべての菊の栽培が御苑に移されました。

1927年(大正年)

2月、大正天皇の大喪の礼が行われる。
旧御涼亭(あるいは台湾閣)が御成婚記念として建てられる。
閩南や台湾風木造建築で、後、東京都選定歴史的建造物の指定を受ける。

昭和時代

1927年(昭和二年)

旧門衛所(旧新宿門衛所、旧大木戸門衛所)が建てられる。

1929年(昭和年)

11月、初の観菊会が開催される。(戦後は「菊を観る会」)

1929年(昭和4年)

「観菊会」が行われる。以後は会場として定着。

1933(昭和八年)

観菊会が日本庭園で毎年催されることが決定す。

1945年(昭和二十年)

5月、太平洋戦争の空襲により、御苑内の施設がほぼ全焼す。(旧御休所と旧御凉亭は現存)

戦後まもなく

一時東京都立農業科学講習所高等科が設置される。

1947年(昭和二十二年)

12月、新宿御苑は皇居外苑、京都御苑とともに「国民公園」として運営される旨が閣議により決定される。
「国民の慰楽、保健、教養等、国民福祉のために確保し、平和的文化国家の象徴」として運営していくことが決定し、大蔵省から厚生省に所管を移される。

1949年(昭和二十四年)

菊花展示を一般公開。

3月、都立「農業科学講習所」が廃止される。

4月1日、当年当月より「国民公園新宿御苑」と名称をあらためる。

5月21日、「国民公園新宿御苑」として一般に開放される。
入園料は20円。翌年3月までの10ヵ月間で105万人もの入園者数を記録。

旧洋館御休所は管理事務所として使われる(平成6年まで)

1950年(昭和二十五年)

厚生省の所管となる。

1951年(昭和二十六年)

観菊会は開苑から2年後となる内閣総理大臣主催の「菊を見る会」として再開す。

1953年(昭和二十八年)

秋の園遊会が赤坂御用地にて開催される。

1958年(昭和三十三年)

多くの温室植物を集めたドーム型の大型温室が完成す。当時としては東洋一の規模であった。

1965年(昭和四十年)

春の園遊会を赤坂御用地に開催す。

1971年(昭和四十六年)

7月、環境庁が発足す。
この動きに伴い、全国の国立公園などもひっくるめて環境庁に所管が移る。

1985年(昭和六十一年)

観世・金春・宝生・喜多と各流派の能が行われる。

平成時代

1989年(平成元年)

2月、昭和天皇の大喪の礼が行われる。

平成6年

旧洋館御休所は管理事務所ではなくなる。

2001年(平成十三年)

旧洋館御休所が、大正13年当時の姿(元の姿)に戻される。旧洋館御休所の一般公開を開始す。

1月、省庁再編により新宿御苑の管理は環境省に移る。同年、皇室庭園時代の歴史建造物「旧洋館御休所」が国の重要文化財(建物)の指定を受ける。

2004年(平成十六年)

「旧御凉亭」が東京都歴史建造物に指定される。

2006年(平成十八年)

皇室庭園開園100周年をむかえる。(「新宿御苑」の名を冠してから100周年を迎える)
開園100周年事業の一環として、絶滅が危惧されている植物の保護センターを設置することが計画されている。

4月、植物園自然保護国際機構(BGCI)による「植物園の保全活動に対する国際アジェンダ」に登録。

2007年(平成十九年)

5月13日、建て替えのため閉館す。

平成19年(2007)

ニューヨーク植物園に伝統の菊花が展示される。

2010年(平成二十二年)

埋蔵物発掘調査で旧温室の遺構が出土す。

2012年(平成二十四年)

11月20日、新宿御苑がリニューアルオープンす。

 来園者が森に親しむための「母と子の森」も新たに設けられる。
ドーム型の大温室は絶滅危惧種の保存・展示を行う環境配慮型温室としてリニューアルオープンす。

2014年(平成二十六年)

9月4日、代々木公園で採取された蚊からデング熱ウイルスを検出される。これを受け、環境省は、9月7日より臨時閉園を行い、蚊の捕獲調査を実行。
その結果、同月19日に園内にデングウイルスを持った蚊を採取す。新宿御苑の利用者からは感染者は出ていない。
10月9日より外周部の施設を再開園す。御苑全体は10月17日から再開園す。

また、同年、伝統の菊花がベルサイユ宮殿に展示される。

2018年(平成三十年)

10月、元男性職員が外国人客から約2500万円分の入園料を徴収していなかったことを発表す。

2019年(平成三十一年)

3月、年間来園者数が2013年頃から2018年頃にかけて倍増す。
半数は外国人来園者と推計。2020年に向けて魅力向上に向けた取組として、16時30分の閉苑時刻を3月15日から9月30日は18時、夏季の7月1日から8月20日は19時まで延長。
春秋の夜間ライトアップ、植生・施設の整備、月2回の旧洋館御休所の開館日を週3回に拡大。
この費用を捻出するため、2019年3月19日より入園料が改定され、大人200円から→500円に値上げす。




令和時代

2020年(令和二年)

3月26日、コロナウィルスの蔓延により、政府は緊急事態宣言を発令。これを受け、令和2年(2020年)3月27日(金)から当面の間、臨時庭園を発表す。

6月1日、政府は新型コロナウィルス感染拡大防止策となる緊急事態宣言を解除。
これを受け、新宿御苑も6月2日より開園が再開される。
なお、温室は6月16日(火)より開館した。
苑内レストラン・カフェでは、感染拡大の原因ともなる密集を避けるべく、テイクアウト販売を開始す。
2021年(令和2年)

12月26日(土)、新型コロナウイルス感染拡大により、2021年(令和2年)12月26日(土)から令和3年1月11日(月・祝)までの臨時閉園す。なお、感染状況が改善に至らなかったため、閉園期間を延長す。

ちなみに政府の2回目となる緊急事態宣言は、この後の年明けて2021年1月8日~3月21日まで発出された。
2022年(令和3年)

4月25日(日)、政府より再度発令された新型コロナウイルス感染症緊急事態宣言に伴い、感染拡大防止のため、 令和3年4月25日(日)から同年5月11日(火)まで臨時閉園す。

6月4日(金)、再び開園す。6月22日(火)以降、当面の間の開園方法を改める。

【補足】新宿御苑開園の経緯と歴史

江戸時代から明治時代半ばまで

新宿御苑の敷地は、徳川家康が幕府を開く前の1590年(天正18年)に、豊臣秀吉から領地を与えられ、江戸城に入場した際、臣下の内藤清成に授けた屋敷の一部でした。

明治時代に入ると、内藤家から上納された土地と買収した隣接地を合わせた敷地に、政府が、日本の近代農業振興を目的とした「内藤新宿試験場」を建設します。

その後、試験場としての役割の一部を他に移し、1879年(明治12年)には、宮内省所管の「新宿植物御苑」となります。

新宿植物御苑時代には、鴨池や養魚池の他、後に上野動物園に下賜されることになる動物園、時にはゴルフ場までが入った、皇室の御料地・農園として利用されました。

新宿御苑の誕生・国民公園へ

新宿植物御苑では、その後、1902年(明治35年)から4年間を費やして大改造が行われ、1906年(明治39年)5月、晴れて「新宿御苑」としてのスタートを切りました。

新宿御苑では、開園年を、この1906年としています。

新宿植物御苑が新宿御苑へと改造されるに至った経緯は明らかではありませんが、当時の責任者だった福羽逸人(ふくばはやと)が、若いころからドイツやフランスに留学し、西洋の花き・果樹園芸を学んでいたことが、大きく影響したものと考えられています。

それから長らく、皇室の庭園として利用されていましたが、1945年(昭和20年)5月の空襲で、旧御凉亭と御休所を残して、ほぼ全焼という、大きな被害を受けています。

戦後は、皇居外苑・京都御苑とともに、「国民公園」として運営されることになり、1949年(昭和24年)5月21日からは、「国民公園 新宿御苑」として、一般公開されるようになっています。

国民公園とは:

国(環境省)が設置・管理する公園で、皇居外苑、新宿御苑、京都御所の3か所。
国が管理する公園としては、他に、自然景観の保護を目的とする自然公園と、広場や植物園、イベント施設などを持つ都市公園があります。

新宿御苑までの交通アクセス

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